小学五年のある秋の日のことです。運動会でマスゲームを披露することになった私達は、それを統括する学年主任の教師の元で、その全体練習をさせられていました。その教師は建物の二階から私達を見下ろし、全体の動きに少しでも遅れる生徒が居ると、その生徒を拡声器越しに罵倒するのでした。
授業時間も残り僅かとなり、これが今日最後の一回という時、私達五年生一同は一糸乱れぬパフォーマンスを披露しました。するとその学年主任は私達を見下ろしながら、「こうして高いところから皆のマスゲーム見れて、先生という立場に立てて本当に良かった」と笑って言ったのでした。私は彼のその言葉に言いようのない嫌悪感を抱いたのを覚えています。
拡声器からの彼のコメントが終わって暫くの後、一人の男子生徒の笑い声が静寂を破りました。彼は隣りの生徒とちょっと無駄話しをしただけでした。次の瞬間、その教師は建物の階段を駆け下りてその男子生徒の前に立つと、いきなりその生徒を殴り倒したのでした。その時の鈍い音が拡声器越しに校庭に響き渡りました。その教師は、立ち上がった生徒をまたしても殴りつけました。
その教師の罵声と拡声器から発せられる「殴り音」を聞きながら私は、この教師の前では従順な生徒でいなくてはと思ったのでした。
その教師は、私の小学五・六年当時の担任です。私がその教師を初めて見た時直感的に、彼のクラスにだけは絶対になりたくないと思ったものでした。しかしあいにく、小学五年に進級した時の担任が彼だった訳です。私達クラスメイトは、小学五年から卒業までの二年間を、ほぼ毎日のように彼のビンタを食らいながら過ごしたのでした。
私についていえば、他の生徒より背丈が幾分高かったからか、彼が顧問をする課外活動の運動部に半強制的に入部させられ、出来るだけ彼に関わり合いたくないという思いとは裏腹に、他の生徒よりも多くの時間を彼と関わることになったのでした。小学五年と六年を振り返り、口の中に切り傷が無かった日のほうが少なかったように記憶しています。
彼は常々、「君達に外のクラスの生徒達には味わえない喜びを味わわせてやる。だから厳しいかもしれないが付いてきて欲しい」と語っていました。そして実際に彼は、プライベートなど殆ど無く、彼の時間の大部分を自分のクラスの生徒指導と、自らが顧問を勤める部活動の指導に費やしていました。
恐らく彼自身、自らの体罰有りきの指導方針に絶対の自信を持っていたように思います。彼自身の高校だか大学時代だかの恩師が彼を同じように指導したようで、「今の自分があるのは当時の恩師の指導のお陰だ」という思いが、常に彼の根底にあったようでした。
生徒の前で教壇に立つ大人が、自らの体験に裏付けられた揺るぎない考えを熱い言葉で語る時、それは生徒達に強烈なメッセージとして伝わるものです。私達生徒は彼の熱い言葉に心動かされ、時には涙することさえありました。
また当時は、体罰による指導が市民権を得ていた時代であったという背景もあり、保護者のあいだでも、そして他の先生方のあいだでも、彼の指導方法は正当なものとされ、一部からは称賛さえされていました。
その最前線にいた私達生徒もまた、例えばクラス対抗リレーや球技大会などで、ビンタを食らいながらの特訓の果てのクラス優勝等を経験できたことで、益々彼の指導の虜になっていったのでした。
小学五年から卒業までの二年間がとても濃密な時間であり、その間に非常に多くの喜びを味わえたこと、そしてそれらの大半が担任教師に負うところが多かったこと、これらは揺るぎない事実です。迎えた卒業式の日、そのような時間がもう二度と戻ってこないことを思い、溢れ出る涙を抑えられなかったのも事実です。さらに中学一年時の最初の半年程は、「お前の六年の時のクラスはまとまりがあって、熱くて羨ましかったよ」といったような言葉を、小学六年の時は違うクラスだった友人達からしばしば言われたものです。しかし当の私自身は、彼の指導方法に心酔していた一方で、どこか釈然としない感覚をいつも抱えていたのでした。
ところが年齢を重ねていくに連れて、私はその釈然としないものの実像を、私なりに掴むことができるようになりました。
「当時の私達は、彼を教祖とする敬虔な信者の一団であった」
これが、当時の私達と彼との関係性を表すのに、最もしっくり来る言葉だと思います。教室は密室です。そこでは教師の匙加減で、自らが教祖となり、生徒を信者とすることが出来てしまうように思います。教育という名目で洗脳することが出来てしまうように思うのです。
小学校の卒業当時、「将来の夢」と題された卒業文集を書くことになりました。そこに私は、彼によって半ば強制的に入部させられたスポーツ競技の日本代表選手になりたいと書きました。彼から間もなく解放されることが分かっていながらもなを、自らの本心を偽って、彼への阿(おもね)りから綴ってしまった言葉でした。
今思うに、彼の指導に決定的に欠落していた要素があります。それは個々の生徒の個性を尊重するといった要素です。当時私達は、彼の強烈な個性の前に、自らの個性を発揮する余地など微塵もありませんでした。
様々な選択肢が与えられた中で、自ら主体性を持って選択した結果、彼の指導を受けるということであれば、それはそれで有りだと思います。しかし当時の私達は、義務教育という選択の余地など無い場面で、あのような指導を受けざるを得なかった訳です。当時彼は自らの指導を通じ、果たして何人の子供達の個性を潰しかねなかったことでしょう。それを思うと強い憤りを感じます。
小学五年のあの秋の日、笑い声で静寂を破った為にあの教師から酷い体罰を食らった男子生徒は、もしかしたら彼自身の個性を潰されることを恐れ、彼なりの手法で、あの教師に抗議の意志を示していたのかも知れません。その男子生徒はその後、県下有数の進学校から最難関の私大へと進学します。聡明だった彼だけは、早くからあの教師の本質を見抜いていたのかもしれません。