その日、業務の関係で始発電車に乗って出勤した私は、まだ陽のある時間帯での帰宅を許されました。私は、いつもの最寄り駅への道とは反対の道を歩いてみることにしました。夕暮れが迫る中、荒れた空き地を片側に見ながらしばらく歩くとやがて視界が開け、眼窩に広がるように列車の車両基地がありました。
その風景を目にし、ふと懐かしい記憶が蘇ってきました。
あれは高校ニ年の秋のことです。私は幸運にも、当時気に掛けていた同じクラスの女子と一対一で出掛ける機会を得たのでした。共学の高校では当時、そしておそらく今でも変わることなくよくあることだと思いますが、当時私達も、友人同士で自分が気に掛けていた異性を言い合ったものでした。そして、私の意中の女子と高校一年の頃から親しかった友人男子の根回しのお陰で、私はこの好機を得たのでした。
高校の創立記念日の平日休みの日、抜けるような青空の下、私達は列車に乗って渋谷に行きました。彼女は折に触れ買い物などでこの街に出掛けて来ていたようで、人混みの中を歩くのも慣れた様子でした。私は平静を装いながらも、彼女に遅れを取らぬよう必死で並んで歩きながら、すれ違う男性がチラチラと彼女を見るその視線に、言いようのない優越感を感じたのでした。その後私達は、映画を観て食事をしました。
夜になり、渋谷を後にしなければならない時刻になりました。乗り入れた帰りの列車はスーツ姿のサラリーマン達でごった返していましたが、私達は途中から幸運にもシートに並んで座ることができました。満員列車で揺れる車両のシートに座りながら私は、こんな時間帯のしかも馴染みの無い東京というエリアで、自分は今意中の女性と隣り合わせに座っている、そう思うと有頂天にならずには居られませんでした。
列車は、東京と私達の住む県との境を流れる川に架かる鉄橋を進んで行きました。
列車が私達の住む県に乗り入れた途端、私の思考は急に現実へと引き戻されました。彼女との別れの時間が刻一刻と迫っていることを自覚し始めたのです。明日になればまた彼女に学校で会える、それは重々承知していましたが、私にとってはまさにこの時間が貴重なものでした。私は少しでも彼女と一緒に居たいと思い、彼女の自宅がある駅まで一緒に乗って行くと言いました。彼女が肯定も否定もしなかったので、私はそうすることに決めました。
列車はさらに進んで行きました。私達が降りなければならない駅に近づくにつれ、乗客はだんだん減っていきました。 不思議なことに彼女の自宅のある駅に近づけば近づく程、私のトークは冴え渡るのでした。一種のナチュラルハイ状態だったと思います。一方彼女も私のトークに屈託なく笑ってくれ、思えばこの時がこの日の最高潮でした。
そんな矢先、遂にアクシデントが起きました。気が付くと、彼女の自宅のある駅は通り過ぎてしまったのです。彼女の自宅のある駅は終点に位置します。つまり私達を乗せた列車は、そのまま車両基地へと入って行ったのでした。
私達は、降りそびれたことを互いのせいにし合いました。しかしそれは本心からではなく、お互いこのアクシデントをどこか楽しんでいるような感覚がありました。人気の無い車両でおしゃべりを続けながら私は、車両の電気が消され、この閉じこめられた状態のまま、彼女と朝まで一緒に居ることになるのを期待しました。
しかしその期待は、その後の駅員の登場で潰えました。
列車が終点駅に差し掛かった時、実は私は「この列車は車庫に入ります」という車内アナウンスを聞いていました。しかし彼女は聞こえていないようでしたし、そのアナウンスよりも彼女との時間のほうが遥かに貴重だったので、聞こえないふうを装ったのでした。
彼女は実際のところどうだったのでしょう。あの社内アナウンスを聞いたのでしょうか。
それから、私は何度となく彼女に自分の気持ちを伝えようと試みました。しかし伝えられないまま月日が流れてしまいました。やがて彼女は、部活動の後輩とお付き合いをスタートさせました。
あの夜、彼女と並んで駅員に誘導されながら私は後ろを振り返りました。そして、暗闇に佇む車両基地を見ました。月夜の下、車両基地を取り囲むようにススキが生えていました。
私は秋になったら、またこの場所に来てみたいと思います。この車両基地の周囲にはススキが生えるのでしょうか。